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   林檎

   れつどくろばあ

   ・忘れな草

林檎


      石狩の都の外の

      君が家

      林檎の花の散りてやあらむ


初出「文章世界」明治43年11月号 

 札幌郊外のあなたの家では林檎の白い花が散っているであろうか。

 橘智恵子の実家は北海道札幌村にあった。父は越中富山の庄屋の次男だった。明治16年北海道に渡り林檎園を営んでいた。母は尾州刈谷藩家老の三女で東京府師範学校の出身、渡道後も札幌師範学校付属小学校等に教鞭をとった。

(「石川啄木必携」學燈社 岩城之徳・編)


林檎

りんご バラ科の落葉高木、およびその果実。中央アジア原産、北半球温帯・冷帯の代表的果樹。日本には在来の和リンゴがあったが、今日食用に栽培されているものは、明治になって米国などから導入されたものの子孫である。

 幹の高さ約3〜9メートル、葉は楕円形で白毛が多い。春、白色で紅暈あるサクラに似た五弁の花を開き、果実は円形、夏・秋に熟し、味は甘酸っぱく、食用。

 ふじ、むつ、紅玉、世界一、祝、王林、つがる、ゴールデンデリシャス、などの品種あり。わが国ではミカンに次いで多く生産される。

青森県  県花 

花ことば 誘惑・選択・選ばれた恋


「石狩の都」(石狩平野の「都」は札幌)の郊外、「君が家」、「林檎の花」。土地と花とそこに住む女性。美しい地名と花とが相乗して、「君」とその人の住む「家」が緑の額縁に囲まれた一枚の絵画を印象づける。島崎藤村の「初恋」に謳われた、前髪にさした「花櫛の花ある君」の詩の世界を下絵に用いた感じすら与える。

(上田博「石川啄木歌集全歌鑑賞」)


 ここは啄木のあこがれの女性、橘智恵子の実家だったのである。啄木が智恵子と出会ったのは、明治40年6月、函館の弥生尋常小学校で代用教員をした時である。そこには女学校を卒業し、訓導として赴任したばかりの18歳の智恵子がいた。啄木は智恵子に対して「真直ぐに立てる鹿の子百合」をイメージしていた。

 しかし、函館が大火にあうと小学校も焼け、啄木は職を失って札幌の新聞社へ転職していった。以来、智恵子と会うことはなかったが、後に歌集『一握の砂』に智恵子を詠める歌二十二首をおさめ、その中の一首が林檎の歌なのである。

(山本玲子「拝啓 啄木さま」)


 啄木が函館の小学校で代用教員をした頃に、一緒に勤めていた橘智恵子を詠んだ一首です。

 智恵子の実家は札幌郊外にあり、林檎園を営んでいました。啄木は函館の小学校を辞めて、札幌の新聞社へ赴任する前日、智恵子を訪ねました。そして二時間ほど語り合い、智恵子に惹かれていく自分を感じていました。智恵子の実家の話を聞いたのもその時かもしれません。

(石川啄木記念館「啄木歌ごよみ」)


 智恵子は明治22年生まれですから、啄木の三歳下です。一説によれば、啄木が智恵子をうたう歌を二十二首詠んだのは、智恵子の生まれた明治22年に因んだともいわれています。啄木にありそうな趣向です。実は歌人斎藤茂吉も、59歳で亡くなった母の死を悼む挽歌を、59歳に因んで、五十九首詠んでいるのです。

 一読して、この歌には「石狩の都の外の」とか「林檎の花の」というように、助詞の「の」が多く使われていることに気づくと思います。大きな場所から、だんだんに焦点を絞っていく手法で、この歌ですと、広い石狩の都という札幌、そしてそれをせばめて、その郊外の君の家---と、焦点を絞っていきます。

 しかし、この歌の特徴は下の句の「林檎の花の散りてやあらむ」と、林檎を効果的に使っているところでしょう。初夏の5月に咲く白い林檎の花が、畑一面に散っているだろうという表現から、さっぱりとした清潔感を先ず感じます。そして、それ以上に、林檎そのものが、智恵子の上品な美しさを、私たちにイメージさせてくれます。おそらく、啄木はこの歌に、智恵子への清純な思いを託したかったのではないでしょうか。

(遊座昭吾「啄木秀歌」)


 東京時代の啄木はその理想とする精神的な恋愛の対象として、常に智恵子の面影を思い浮かべ、彼女に対する切ない思慕を歌うことによって、一つの甘美な自由世界をつくりあげ、そこに逃れることによって、都会での苦しい現実を忘れようとしたのである。

(岩城之徳「人物叢書 石川啄木」)


 札幌の大きな林檎園の娘で弥生小学校の同僚教員であった橘智恵子に捧げた「忘れがたき人々 二」から。小奴の場合とちがって、こちらのほうは官能よりは心情を主とした青春の叙情歌である。もう一首、

 世の中の明るさのみを吸ふごとき/黒き瞳の/今も目にあり

 啄木はこの女性に対しては思慕を寄せるだけに終ったので、「二」の歌にはその清らさと、また弱さがある。

 北海道流離の歌の中のとりわけ忘れがたい二人、小奴とこの橘智恵子が、職業も育ちも、また啄木の心のありようも対蹠的であるのは、興ふかい。

(上田三四二「石川啄木の手帖-國文学」昭和53年6月臨時増刊号)


 啄木と智恵子とのあいだは結局、彼がうたったように、旅人が路上に道を尋ねるほどの、人生において淡々とすれちがっただけの交わりであった。だが、その淡い偶然的な交わりが、かえってその人を「忘れがたき人」として印象づけることもある。清純な林檎の匂いとともに思い出される女性であった。相手の気持ちにはかかわりなく、ひとり相撲をやって、燃え上がらせたプラトニックな恋である。

(日本の詩歌 5 「石川啄木」) 


 札幌村元村の林檎は橘仁が此地に定住し苗木を植付せる時より始まる… 仁は…明治十七年春 苗木妻戸籍を携へ此地に住付き栽培す… 適地で順調に生育せる樹は明治十三年より結実初めて販売す 橘林檎園の誕生なり… 昭和五年六月十四日仁没と共に林檎園は消滅す 仁が此地に基を定めて百年以上経ち其の孫三十余名は国内はもとより米国伯国に在る今祖父を偲びて此の碑を建立す… <碑陰>

 智恵子は弥生小学校に勤め、のち退職して空知郡の北村牧場に嫁いだ。6人の子に恵まれて幸せな日々を送ったが、33歳の若さで亡くなっている。

(浅沼秀政「啄木文学碑紀行」)



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れつどくろばあ


 紅苜蓿(べにまごやし→れつどくろばあ)

   啄木が寄稿し 後に編集もした「苜蓿社」の雑誌名


うまごやし
 
ヨーロッパ原産のマメ科の一,二年草。江戸時代に渡来したといわれ,多く海辺に野生化。葉は長さ1.5cm内外の3小葉に分かれる。

 春,葉腋から出た短い花柄上に,少数の黄色い蝶(ちょう)形花をつけ,花後にらせん状に巻いた5mm内外のとげのある豆果を結ぶ。緑肥,飼料作物として栽培され,また野生化もしている。名は,ウマに与えると肥えるということからついた。

ぼくしゅく
 
ぼくしゅくは本来、これに似て青紫色の花をつけるムラサキウマゴヤシ(アルファルファ),豆果にとげのないコメツブウマゴヤシがあり,栽培されまた野生化している。漢名野首草。

クローバー
 シロツメクサ(白詰草)、ツメクサとも。ヨーロッパ原産のマメ科の多年草。茎は長く地をはい,葉と花序は立ち上がる。葉柄は長さ6〜20cm,長さ2cm内外の倒卵形の小葉を3個つける。

 春〜夏,葉よりも長い花柄を出し,多数の花を頭状花序に密生する。花は白色の蝶(ちょう)形花で長さ7〜8mm内外。江戸時代,オランダからの輸入品の詰物として日本に入り,明治以降牧草として導入された。

アカツメクサ
(赤詰草・赤漆姑草)
 ヨーロッパ原産、明治初年頃日本に渡来し各地に帰化し、牧草として栽培されるマメ科の多年草。ムラサキツメクサともいい,三小葉からなり、しばしば中央に八字状の白斑がある。

 夏、茎の上部に紅紫色の小蝶形花を多数密集し、花後、莢を生ずる。シロツメクサとともにクローバーの名で知られる。レッド・クローバー。和名紫詰草。

花言葉  

クローバー (白) 堅実・幸福・約束・私を想ってください (赤)善良で陽気
 
うまごやし  約束・幸運・生命



 北海道と啄木を結ぶ直接の機縁となった
苜蓿社は、函館における短歌研究の会であった野薔薇会の同人並木翡翠(武雄)・松岡蕗堂(政之助)・岩崎白鯨(正)・吉野白村(章三)らが、文芸誌刊行の目的をもって明治39年の秋結成した文学愛好者のグループで、彼らの先輩である東京新詩社の同人大島野百合(経男)らが参加してこれを援助した。

 苜蓿社の雑誌「紅苜蓿(べにまごやし)」は大島野百合の命名によるもので、明治40年1月1日菊判三色刷の瀟洒な装幀をもって創刊された。

(岩城之徳「人物叢書 石川啄木」)


 啄木は創刊号の発行に際し、蕗堂に請われるまま、長詩「公孫樹」と「かりがね」「雪の夜」の三篇の作品を書き送り、雑誌を飾った。・・・・函館入りした啄木は、早速、編集発行一切を流人から任され、第6号から担当し、誌名を『紅苜蓿(れつどくろばあ)』と改称して、第7号には小説「漂泊」を啄木名で、短歌「曽保土」を西方左近の名で発表するなど、原稿難にあっての啄木の活躍ぶりがうかがわれる。

「雑誌紅苜蓿は四十頁の小雑誌なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌なり」(明治40年9月6日日記)と記した啄木であるが、8月25日に発生した大火で第8号の原稿全てを焼失し、『紅苜蓿』は第7号で終刊となった。

(阿部たつを「啄木と函館」解説・桜井健治)


「紅苜蓿」の主宰者の大島流人は、啄木よりも9歳の年長で、「予らの最も敬服したる友なり、学深く才広く現に清和女学校の教師たり」という啄木の信頼と尊敬を集めたほどの人物であったが、教え子、石田松江との結婚の破綻から職を辞し、郷里日高の静内に去っていった。・・・

 啄木が出した書簡で相手に対して先生と書いているのはごく少ない。例えば、森鴎外や姉崎正治(東京帝大教授)、新渡戸仙岳(盛岡高等小学校の恩師)、佐藤真一(朝日新聞編集長で啄木の上司)などであるが、これらの人達は常識的に見て当然であるとしても、文学における師であった与謝野鉄幹でさえ先生とは書いていないから、ましてや友人などに書くはずはない。その中で大島流人だけには先生と書いているのである。この事実を見ても彼が流人をいかに尊敬していたかがわかると思う。

 主宰の流人は去るに当たって雑誌の全権を啄木に委ねた。・・・第6号から啄木の編集となった。まず誌名を「れっどくろばあ」と英語読みとし、巻頭に自作の詩「水無月」を据え、巻末に入社の辞を掲げ、裏表紙に主筆石川啄木と大書しアピールしている。万事に控え目な流人との性格の差が見られて興味深い。
(井上信興「漂泊の人」)



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忘れな草


     思うてふこと言はぬ人の

     おくり来し

     忘れな草もいちじろかりし


初出「明星」明治41年11月号 

作歌明治41年10月23日

自分の思うことをはっきり言わない人が、だまって送ってきた忘れな草によって、その人の気持ちがはっきりわかったことよ。
(「石川啄木必携」 岩城之徳・編)


ワスレナグサ

 ヨーロッパ、アジア原産の多年草。高さ30B位。花は春から夏、花冠の先が5裂した小花を総状に開く。花は初め淡紅色、のち藍色(コバルト色)となる。

 和名は私を忘れるなの意。英名 Forget-me-not にまつわる悲しい伝説がある。

花言葉 真実の愛(青)・私を忘れないで(白)


 ドイツの伝説によると、恋人とドナウ川のほとりで楽しく語り合っていた青年が岸辺に咲く花を恋人のために取ろうとして、足をすべらせ、激流に落ちてしまったという。

 青年はつんだ花を恋人に投げ、「私を忘れないでください」と叫んで激流の中に姿を消してしまったという。これが Forget-me-not ということばの由来である。
(New Approach Dictionary)


 啄木がまだ釧路にいたころ、東京の恩師与謝野寛氏から「明星」の募集短歌の選者を頼まれた。啄木が選をしたこの一束の投稿歌の中に筑紫の菅原芳子がいた。

 「わすれな草ほのににおえるしろがねの小瓶ならべし春の夜の家」など数首が4月号(1908年・明治41)に載った。その後、啄木が上京してからも「明星」の編集を手伝い、歌稿を送ってくる芳子と互いに惹かれ合っていった。

 「思うてふこと言はぬ・・」の歌は、当時の啄木の芳子に対する胸奥からのささやきである。
(吉田孤羊「啄木発見」より要約)



 自分の思いを口に出して「言はぬ人」が送ってきた「忘れな草」に、その「人」の思いがはっきり伝えられていて、人のこころが草花にあらわれ、草花のこころが人にあらわれていて、人と自然との深い縁に思いを寄せるのである。
(上田博「石川啄木歌集全歌鑑賞」)


 盛岡出身の画家・深沢紅子の絵に「忘れな草」がある。深沢紅子は1903年(明治36)生まれで、幼い頃、中津川河畔に遊び、忘れな草が群れ咲いているのを見ている。

 同時代に盛岡にいた啄木とは、同じ忘れな草を見ていたかもしれない。「深沢紅子・野の花美術館」と「啄木・詩歌の散歩道」は、中津川に沿って並んでいる。
(「啄木の息」啄木文学散歩 岩手県盛岡市)

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