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啄木行事レポート

 小国露堂展 + 啄木寄港の地碑<宮古市鍬ケ崎>
    ----啄木に主義を説いた宮古生まれの反骨の新聞人----

2004年9月25日(土)〜10月3日(日) 宮古市立図書館  

     小国露堂展

     啄木寄港の地碑 宮古市鍬ケ崎 

     宮古あれこれ


小国露堂展

 小国露堂は1877年(明治10)宮古の呉服店の長男として生まれた。啄木より9歳年上。14歳のとき、小国家の養子に入った。

 1905年(明治38)北海道に渡り記者生活をしていた時に、たまたま知人の向井永太郎の縁で啄木と会った。そして、函館の大火で函館日々新聞の職を失った啄木を、自分の勤める札幌北門新報社へ入社させた。

 露堂展は全国初で、宮古で発見されている新聞では最古の旬刊宮古新聞や「終刊之辞」掲載の最終号、露堂が使っていた水晶の印鑑なども展示されていた。

宮古市立図書館
宮古駅から線路沿いに歩き山口川にかかる橋を渡ってすぐ

○ 露堂啄木との交友(啄木日記から)

  1907年(明40)

9月15日 午前向井君らと共に小国君を訪へり、又快男児なり岩手宮古の人。(露堂と初対面)

9月16日 北門新報社に出社。(新聞校正に従事。勤務は午後2時から8時)

9月20日 夜小国善平君より小樽日々へ乗替の件秘密相談あり、

9月21日 夜小国君来り、向井君の室にて大に論ず。小国の社会主義に関してなり。所謂社会主義は予の常に冷笑する所、然も小国君のいふ所は見識あり、雅量あり、或意味に於て賛同し得ざるにあらず、社会主義は要するに低き問題なり然も必然の要求によって起れるものなりとは此の夜の議論の相一致せる所なりき、小国君は我党の士なり、此夜はいとも楽しかりき、向井君は要するに生活の苦労のために其精気を失へる人なり、其思想弾力なし、

9月23日 夜小国君の宿にて野口雨情君と初めて逢へり。…嘗て小国君より話ありたる小樽日報社に転ずるの件確定。

12月11日 札幌に行き、小国君の宿にとまる。

12月15日 小国露堂君札幌より来り、滞樽一週間。

12月21日 午後斎藤大硯君来り露堂君来る。

ガラス張りの明るい建物

  1908年(明治41)

1月8日 帰つて来ると、札幌の小国露堂君が来て、二度見えたが、モ一度来ると云って行つたと云ふ話。

1月9日 午前露堂君と共に沢田君を訪ふたが留守。

1月10日 午前の中に小国君が日報の札幌支社に入る件が決定。

 ---2月、3月と交友が続く

4月18日 小国佐田奥村諸君来る。(これが最後になる)

・啄木のこの歌のモデルは、小国露堂である。

  平手もて
  吹雪にぬれし顔を拭く
  友共産を主義とせりけり
  

     

○ 展示写真と資料

・戦前、発行した「宮古新聞」印刷工場内の写真

 裸電球の町工場で作られていた。平屋の工場で、着物姿の女性3人が原稿を見ながら活字棚から活字を拾っている。撮影年は不明。

 宮古新聞は太平洋戦争開戦20日後の1941年(昭和16)12月28日「第3831号」で戦時下の新聞統制により廃刊し、岩手日報に統合された。

・戦後、盛岡市で三男三平と営んだ貸し本屋「仁王文庫」の写真 

 雪の積もっている写真には手前に「仁王文庫」の看板が大きく写っている。

・「仁王文庫」の書籍リスト

 「『若き支那の子』パールバック 料金A」などと書かれてある。

 リストは書名、著名、図書番号、整理番号、備考、料金に分類され、1150冊が記載されている。リストの文字は几帳面に書かれ、カーボン紙を使ったのではないかと思われる。

 写真の裏側が見えるような展示があり、「検閲済」の印が捺されてあった。

 

露堂が使っていた水晶の印鑑の展示もある

  

復刻した印が置いてあった
捺してみた

 

○ 露堂自作の歌

・酔いにまかせて詠んだといわれる「喜びは…」に始まる六首は、孫や妻などを歌ってのびのびとして楽しそうな歌だった。

・露堂の辞世の句

われ死なば

石碑はいらず大石に

名もなきものの墓と書くべし


啄木寄港の地碑 宮古市鍬ケ崎

 宮古駅から浄土が浜へ向う道を右に折れ、坂を上ると宮古漁協ビルがある。ビル手前の左側に大きな石碑がある。
 啄木が北海道流浪の旅を終え、どうしても上京し「文学的運命を極度まで試験する決心」で釧路を去って、海路函館へ向かう途中、宮古に寄港したことを記念して建てられた。

アフリカ産黒御影石の碑

 啄木の日記「明治41年4月6日」の全文が刻まれている。

 1908年(明治41)4月6日

 起きて見れば、雨が波のしぶきと共に甲板を洗うて居る。灰色の濃霧が眼界を閉ぢて、海は灰色の波を挙げて居る。船は灰色の波にもまれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。
 十時頃瓦斯が晴れた。午后二時十分宮古港に入る。すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。梅許りではない、四方の山に松や杉、これは北海道で見られぬ景色だ。菊池君の手紙を先きに届けて置いて道又金吾氏(医師)を訪ふ。御馳走になつたり、富田先生の消息を聞いたりして夕刻辞す。街は古風な、沈んだ、黴の生えた様[な]空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは大抵白粉を厚く塗つた抜衣紋の女である。鎮痛膏をこめかみに貼つた女の家でウドンを喰ふ。唯二間だけの隣の一間では、十一許りの女の児が三味線を習つて居た。芸者にするかと問へば、“何になりやんすだかす。”
 夜九時抜錨。同室の鰊取の親方の気焔を聞く。

 

宮古啄木会による説明板

 この碑は,1979年(昭和54)に「宮古港に啄木文学碑を建てる会」によって建てられた。のちにその会が「宮古啄木会」になった。

石碑の裏側から見る景色
宮古湾が広がりその向うに重茂半島

 啄木は、このとき宮古へ上陸したのを最後に、ふたたび故郷岩手に帰ることはなかった。

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宮古あれこれ

● 天気図を書くときにいつも聞いていた「宮古では南南東の・・」
 登山するときに、天気図を書いていました。「宮古では南南東の風、風力3、天気晴れ、気圧xxx、気温・・・」と始まります。
 小さな円から南南東に線を引き、羽根を3本つけます。そして円の中に天気記号を書きました。
 
● 極楽浄土はここにある

浄土ヶ浜 

 「啄木寄港の地」碑から浄土ヶ浜までは1キロメートルほど。「さながら極楽浄土のようだ」と讃えられた美しさは、本当です。

  
 盛岡は、遥か彼方
 お世話になったタクシーの運転手さんの話では、しばらく前までは(何年くらいかは聞きそこねた)路面が悪く道幅も狭いので、盛岡までは車で半日もかかった。今は1時間40分くらいで着く。
 宮古の人は盛岡のことを「内陸」と呼ぶ。「自分は盛岡から宮古に来てずいぶん長いが、まだヨソモノだと言われてしまう」と話していました。
 
● 10月2日の鬼山親芳氏による講演会「小国露堂の生涯」
   (
私は都合でお聴きすることが出来ませんでした)
 鬼山親芳記者(毎日新聞)が「伝えられていたような社会主義者ではなく、リベラルな言論人だった」と新たな人間像を示した。
 露堂は、勤めていた札幌の北門新報に就職を世話した石川啄木に社会主義を説き、啄木の思想形成に影響を与えたとされ、研究家の吉田孤羊も社会主義者として位置づけている。
 鬼山記者は、啄木と交友後に戻った宮古で露堂が発刊した宮古新聞の創刊披露宴に名士80人が出席したこと、1930年の総選挙で岩手1区から初立候補し初当選した民政党の高橋寿太郎の応援演説をしていることなどを紹介。「納税や性別などに関係なく誰もが政治に参加できる参政権論者で、反政友会の立場から無産運動にも理解を示す言論人だった」と語った。
(2004-10-03毎日新聞より)

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 \☆ 小国露堂展実行委員会の方にいろいろとお世話いただきました。ありがとうございました☆/

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