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啄木行事レポート

啄木学級 文の京(ふみのみやこ)講座

        

        2009年7月1日 文京シビックホール

 

○ 始業前

○ 1時間目 - 講演「ふるさとの山に向ひて」

      講師 新井 満 氏

○ 2時間目 - 対談「啄木の手紙あれこれ」

      新井 満 氏 山本玲子学芸員(石川啄木記念館)

 


○ 始業前

   ふるさとの山に向ひて
   言ふことなし
   ふるさとの山はありがたきかな

「シビックセンター25階展望ラウンジより」  

本日の会場である文京区シビックセンター25階展望
室から東京ドームシティのアトラクションを見下ろす

 

○ 1時間目

 講演「ふるさとの山に向ひて」

 講師 新井 満 氏  

   

「シビックセンター」

上の半円に飛び出ているところが展望ラウンジ

       

 ● 啄木の墓の前で
  
・嘘みたいな本当の話。全国のお坊さんが「お盆だというのに、みなさん墓参りに来ない。その理由はこの歌のせいだ」という。“私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません”「これは誰が作ったんだ。新井満だ」というわけ。
 
・そのころ、新聞の川柳欄に「墓参り 行かぬ理由に 千の風」というのも載っていた。
 
・実は私は墓参りが大好きで趣味である。行くと決めたら世界の果てまで行く。会いたい人が生きていれば会うけれど、亡くなっていれば墓参りに行く。準備も作法もない。私の場合、死者が好きだった花を持っていくこともある。
 
・啄木の墓は岩手ではなく函館にある。若いころ、啄木の墓を訪ねた。墓前で「こんにちは。はじめまして」と言った。すると、闇の奥から突然『どこのだれだ!』という若くて甲高い声が聞こえてきた。『年はいくつだ』「26になります」『じゃ、俺と一緒じゃないか』
 
・私は、啄木の歌に曲をつけてもいいかお願いした。『勝手にしろ』と言ってもらえたので『一握の砂』551首から5首選びひとつのかたまりとして曲をつくった。作曲の時の条件は原作詩に忠実に、ただし、「アー」「ウー」や、ルフランはよかろうということにした。
 

  ●「一握の砂」石川啄木 作詞・新井満 作曲

 

 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる」
  
 潮かをる北の浜辺の
 砂山のかの浜薔薇よ
 今年も咲けるや 
  
   いのちなき砂のかなしさよ
   さらさらと
   握れば指のあひだより落つ
  
   大といふ字を百あまり
   砂に書き
   死ぬことをやめて帰り来れり
  
 頬につたふ
 なみだのごはず
 一握の砂を示しし人を忘れず

  
 
 
 

「啄木が住んでいた『喜之床跡』」

会場から東へ500mの距離にある

  
 

   「店の外側に張ってある写真」

   「喜之床跡」の理容店は今も営業中。啄木はこの二階に住み
   銀座へ通勤していた。啄木が住んでいたころから数えると
   四代目の方が「アライ」という同じ
名前で同じ理容店を営
   んでいる。
   店の外側に張ってある写真は啄木居住当時の建物で愛知県
   犬山市の明治村に移築された。

  
●「啄木慕情」  
 
啄木短歌の叙情性はダントツである。気品もある。啄木は、橘智恵子さんという函館時代の同僚と、会話したのはたったの二回、手も握っていないのに22首の歌にした。
  
 
 石狩の都の外の
 君が家
 林檎の花の散りてやあらむ
  
    わかれ来て年を重ねて
    年ごとに恋しくなれる
    君にしあるかな
   
    かの時に言ひそびれたる
    大切の言葉は今も
    胸にのこれど
  
 君に似し姿を街に見る時の
 こころ躍りを
 あはれと思へ
   
  
● 啄木 100年目の帰郷
  
・文学と音楽は、今は別のジャンルだが大昔は渾然一体となっていた。どんな言葉も文章も、そこに感動がありさえすれば絶対に歌にすることができる。20代の私は啄木の短歌に興味を覚えたくさんの歌を作ってきた。
 
・NHKラジオ深夜便からテーマ曲をたのまれた。啄木は渋民を出て北海道、東京と文学に命をかけたがうまくいかず、肺結核に倒れ望郷の夢かなわずに死んだ。なんとか啄木の魂をふるさとの山河にかえしてあげたいとテーマ曲を作った。
  
・石をもて追い出し追い出されたミゾを埋めるために、啄木記念館の隣の尋常高等小学校玄関前に今の小学生40名が集まり、100年前啄木が毎晩ひいていたオルガンの伴奏で歌った。その後、「歌っていると啄木さんが空の上から降りてきたので僕は少し緊張しました」と小学生が話した。1907年から2007年、時空を超えて啄木が100年目の帰郷を果たしたのではないか。
  
 
 
「時空を超えて飛ぶ(?)」
ジェットコースター‘サンダードルフィン’
 
 

○ 2時間目 対談 

 「啄木の手紙あれこれ」

      新井 満 氏 山本玲子学芸員(石川啄木記念館)

 

山本/ 

啄木は手紙を書くことが好きで長いものもある。
加藤正五郎宛(書簡葉書 明治43.10.26)は、啄木に男の子が生まれたという知らせの手紙。字を見ると躍るような気持ちがわかる。子どもの名前は東京朝日新聞編集長の佐藤真一からとって「真一」とつけた。

その子が24日目に亡くなる。その知らせは黒枠をつけている。
鉛筆で書いているのやペンで書いているのもある。。明治の頃の鉛筆書きは珍しい。

新井/

今見ると、鉛筆の字は(薄くて)ほとんど見えない。

山本/ 

啄木の曾孫が、「真一」という名をつけている。

新井/

私は全て原稿は4Bの鉛筆で書く。手紙も鉛筆が多い。間違えたときすぐ消せる。鉛筆が5cmくらいになると補助軸に入れて使い、それも使えなくなると捨てないで、鉛筆塚を庭に作りそこに入れている。

山本/ 

啄木は原稿用紙を松屋で買っている。

新井/

私は「新井満専用紙」を作ってもらった。まだ、100年分くらいある。

山本/
啄木の好きだったものを新井先生にプレゼント。
麦せんべい。ゆべし饅頭、りんご、青梅、バラ、豆銀糖(まめぎんとう)・・・・。
   
  
「お土産のバッグとペットボトル
バッグの写真は盛岡市出身の中村誠氏が監修したポスター
冬の岩手山を背景に石川啄木の歌「ふるさとの山に向ひて
言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」を印字した

 
 

新井/

なぜ、今日この会を文京区で開催したか。昔、啄木は文京に住んでいた。弓町「喜之床」の二階に住み、銀座へ通勤していた。その理容店は「アライ」と言うんですか。私と同じ字? 先祖かな。

啄木の歌で作ったCDの売り上げの中から印税の一部を啄木記念館に差し上げることになっている。また、4Bの鉛筆で書いた生原稿も差し上げる。

「ふるさとの山に向ひて」という啄木の言葉は素晴らしい。これを特許庁に申請し許可がおりた。岩手県にふさわしい日本酒にこの言葉をつけて販売をしている。東京では歌舞伎座前の「いわて銀河プラザ」で扱っているので、ぜひ今日のお帰りに!

 
 「千の風になって」
 
私のお墓の前で泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

今の歌は、啄木が歌ったと思ってください。

 
「啄木終焉の地をのぞむ」
地平線に近い上方、中央やや右の緑がこん
もりしているところが小石川植物園である
その左側が啄木終焉の地(小石川5-11-7)

*お知らせ*
 
啄木文学散歩「東京都:文京区 喜之床跡と石川啄木終焉の地」掲載しました。

 

  

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