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啄木文学散歩

高知県:高知市

それを高知駅前で見つけた - 啄木の父石川一禎 終焉の地

眠るがごとき旅立ち - 娘夫婦のもと 78歳の生涯を閉じた


それを高知駅前で見つけた

 高知駅に着くとすぐの観光案内所で手に入れたパンフレットに《石川啄木の父一禎 終焉の地》と書いてあった。今回の旅行の日程には全く入っていなかったけれど、どうしてもいきたい。

 旅行の最後の日、高知駅前の歩道橋の上に立って、方角を見定めて歩き出した。

 

 駅前の雑多な所から外れてすぐの、ちょっとしたグリーン地帯の中に、一本の柱が見えた。駅から、1〜2分の距離と言ってよい。傍まで行ってみる。高さ1.6メートルほどの柱の正面には
《啄木の父石川一禎 終焉の地》とある。『ここに住んでいたのかな』と思いながら、柱の右に回ると、側面に
《この地から東北約百メートル 鉄塔の南側》と書いてあった まるで宝探しのようだ。

(2001-04-30 盛岡市 森さんからの情報
「啄木の父石川一禎終焉の地」標柱は、2003年完成予定の高知駅前整備事業のため、半年前に撤去され、市役所に保管されているらしい。また、100M離れた所にある案内板も、鉄塔やアパートが近く解体されるということで、どうなるのか分からない状況。)
 
(2004-03-10 高知市 岡田さんからの情報
この木の碑は現在は高知市の工事現場の倉庫の中でどうするかも決まらずに眠っている。)

 南はどっちかと、太陽で確かめてから、東北あたりを見た。 そこに鉄塔があった。駅から出る十本近いレールのほぼ真ん中だ。

 鉄塔の傍に寄ろうとしたが、フェンスがあって行けない。辺りを見回すと跨線橋がある。その階段を上って橋の上に出ると鉄塔の根元がよく見えた。レールの間が終焉の地とすると、一禎さんは『鉄道事故に遭われたか』、あるいは『行路病者として発見されたか──明治41〜42年の真冬、一禎は一家の窮迫を見るに見かね、一文も身につけずに家出して東北本線奥中山峠で、疲労のために気を失い、行路病者として駅に担ぎ込まれたことがあった──』など、さまざまな思いが胸をよぎった。

 そのとき、第二の鉄塔が目に入った。“終焉の地の柱”に戻って確かめると、東北の方角と言えなくもない。あらためて第二の場所を目指す。直接は行けなくて、バスの車庫を大回りして近づくと、フェンスの端にプレートがあり

《啄木の父 石川一禎終焉の地  高知県歌人協会》と、記されてあった。『ああ、ここなんだ』と思わずプレートの打ち込んであるざらざらとしたコンクリートにつかまった。

  高知駅バス停前の小空間/啄木の父の碑を/発見す

  幾本の/蘇鉄に抱かれし木碑には/「啄木の父・終焉」とあり

  角柱に/「啄木の父・終焉」と/筆跡柔らに書かれるを見る

 近くで立ち話をしていた男性に尋ねると「これは今、JRの寮で、啄木のお父さんが昔ここで生まれた(?)そうだ」と、話して下さった。

 

眠るがごとき旅立ち 

 この後に行った寺田寅彦記念館の受け付けの方に、「啄木の父終焉のことについて、ご存知でしたら教えて下さい」と、お聞きしたら、資料を探してくださった。


寺田寅彦記念館

 そこには、こう書かれていた。

【土佐観光ガイドボランティア協会 五台山・東部地区ガイドブック】より抜粋

 啄木は、1912年(明治45)に亡くなったが、一禎はその前から次女トラの夫で鉄道官吏山本千三郎のもとに身を寄せており、その転勤に従って各地を廻った。山本は、1924年(大正13)11月、高知駅開業に当たって、高知出張所長として赴任したので、一禎も山本夫妻、養子の勝重とともに高知に来て、所長官舎に住んだ。3年後の1927年(昭和2)2月20日、この官舎で78歳の生涯を閉じた。

 かつての所長官舎の場所は、現在高い鉄塔の建っているところの南側と碑に書かれているが、元国鉄職員によれば鉄塔の東側ともいう。一禎の没後、一禎作の3800余首の和歌を収録した“みだれ芦”と題する歌稿が見つかり、函館の遺族の元に送られたといわれる。

 高知から帰ってから、ボランティア協会にお礼状を差し上げたら、丁寧なお便りと資料を送ってくださった。お便りには「啄木の父のことは高知の観光バスガイドも話をしておらず、ボランティアガイドの特ダネとして10年ほど前から、特に岩手、宮城方面からのお客様に案内をしている。岩手の人などからは、『高知に来て啄木の話を聞こうとは思わなかった』『父の話は初めて聞いた』とか割合好評だ」と書かれてあった。


高知駅長官舎の庭
1925年(大正14)11月9日

 『一枚の集合写真』という高知新聞の学芸欄には、所長官舎の庭に並んだ記念写真が載っている。「鼻下に白い髭を蓄え」「快適な晩年を送った」白髪の老翁、父一禎が前列右端に写っている。(右から3人目が啄木の姉、とら。後列右端がとらの夫、千三郎。その隣が千三郎の長男、勝重。)

 また、『わが旅路』(岩崎巌松著)の中には、「一禎は、娘夫婦と同居した17年間は幸せそのものだったという。お通夜や葬儀に参列した当時の職員が健在で、その状況を伺ったことがある」とあった。

(この資料等をお送り下さった方は、土佐観光ガイドボランティア協会会長の岩崎義郎さんです。南国高知のガイドを無料でして下さいます。

 吉田孤羊著『啄木を繞る人々』の中で、著者は山本千三郎を訪ね、一禎の思い出話を聞き「その臨終はまるで文字通り眠ったままだった」と書いている。また北海道の啄木の娘、京子から“みだれ芦”を見せてもらったときのこともあり、「何れも一度使い古したやうな日本紙の帳面を、裏返して丁寧に綴じ込んだもので、中には歌ばかりでなく、啄木の追悼会の新聞記事などまできれいな筆跡で写されて」あったという。自慢の一人息子が26歳の若さで亡くなり、

「塵の世と思ひ捨ててもさらばとて移り住むべき所だになし」

と歌った父。でも、母カツは、啄木の「名声が今日ほど高くなるとは夢にも知らず永眠され」たが、父は 「世に広く謳わるるわが子の名を充分耳にして亡くなられた」とある。


この鉄塔の下が父一禎終焉の地

 わたしは、土佐の高知に旅をし、あざやかな空の青さと陽光の力強さに感激した。一禎もこの地に移り住み2年と3カ月、ここを愛し、おだやかに旅立たれたと信じた。

  「住むべき所なし」と/歌に遺して啄木の父は/高知の早春に逝く

  啄木の生きてあるれば四十一の/誕生の日に/その父は逝く

  かつて住む所長官舎の在りし地に/「啄木の父眠る」の/プレート温し

(2000)   

 

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