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啄木行事レポート

国際啄木学会〈春季セミナー〉

   2006年4月22日 甲南大学  

  

「新神戸駅の時計は風見鶏」

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◎ 研究発表

 1 啄木初の新聞連載作品「鳥影」ー「女教師」をめぐる視線  太田 翼

 2 岡本かの子『浴身』にみる自責と自己愛ー石川啄木を合せ鏡としてー
                               外村 彰

 3 坂西志保訳 “A Handful of Sand”(『一握の砂』)    照井悦幸    

◎ 講演

  「短歌史における啄木の存在」                太田 登

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阪神・淡路大震災のこと

 1 甲南大学に残る震災の「場」
 2 「人と防災未来センター」
 3 明石天文台の時計塔
 4 寅さんと神戸

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「JR三宮駅はホテルのようにおしゃれ」
甲南大学へは、JR神戸線では摂津本山駅、
阪急利用なら岡本駅下車、徒歩10分

   

「阪急岡本駅前」      
 
ミニ表参道のような可愛い店が並ぶ  


□ 近藤典彦会長 挨拶

  

近藤会長のご挨拶
「これからはインターネットの時代です!
“啄木の息”を見て学会に入ってくださった方もいます。
その方がインドネシアに学会支部を作りました」

 

◎ 研究発表

1 啄木初の新聞連載作品「鳥影」ー「女教師」をめぐる視線

太田 翼      

・「鳥影」は、明治41年11月から12月にかけて『東京毎日新聞』に掲載された、啄木初の新聞連載作品である。新聞一面の真ん中あたり、目につくところに挿絵入りで(挿絵なしのときもある)載った。

・『東京毎日新聞』は、(現在の毎日新聞の前身ではない)「東京者」の視線を意識していた。また、明治34年9月には女性記者を迎え足尾銅山鉱毒事件のルポを連載した。他にも女性問題を多くとりあげていた。啄木が当時女子教育の普及から女性の識字層が飛躍的に増加したという背景に着目し、女性読者の視線を意識した可能性も考えられる。

   

「女性に職があると結婚は難しい」  

  

啄木の職業婦人という存在をとらえる視線は、当時としては非常に新しいものであったことがわかる。女性のおかれている現状の把握にまで及んでいる。
 自ら働いて資を得ている女性は、男性を批判的に見る視線を持ちあわせており…。経済的基盤がこうした発言を可能にしている。
 階層意識を持っている。
 自分より下の女性を見下している…。

・明治四十年頃、女性に職があることは批判されていた。男性を批判的に見て結婚から遠のいてしまう。

・東京者の目線と田舎者の目線が描き分けられている。

「鳥影」の執筆が啄木の女性観における一つの転換点となったのではないかと考えられる。

 
  静かな住宅街に続き
 
甲南大学10号館が見える
  

2 岡本かの子『浴身』にみる自責と自己愛ー石川啄木を合せ鏡としてー

外村 彰      

 岡本かの子は、与謝野晶子門下の『明星』系歌人として出発した。その代表歌集『浴身』には奔放な自我表出も顕著に見出すことができ、そこからかの子と「ナルシスム」を近接させる評者も多い。

 こうした自己愛ゆえの自己断罪の感情は、『明星』の先輩でもあった石川啄木を合わせ鏡とすることで明確となるのではないだろうか。

 
正門「国際啄木学会 春季セミナー」の立て看板
4月らしく「祝 ご入学…」の横幕もかかる
 

岡本かの子

・『浴身』収載歌

 おのづからなる生命のいろに花さけりわが咲く色をわれは知らぬに

おのづからなる命の色に生きることは困難である。仏教的自己凝視がみられる。

 みづからを責むることにもやうやくに疲れ覚えて眼をとざす

この歌には「自責」と前書きがある。啄木とかの子の類似点としては、自己欺瞞への厳しい眼差しがある。

      

 「啄木は自分を愛するから自分に厳しい」  

 

石川啄木

・金田一京助は啄木を「あれ程自分に忠実な人をまだ見ない」と評している。また「あの人程自己を責めるのに峻厳な人を見たことがない」ともいっている。

 何となく、
 自分を嘘のかたまりの如く思ひて、
 目をばつぶれる。

・啄木は、誠実に「自分を愛する」ゆえに、自らを「欺」く「自己を責めるのに峻厳」であった。

・自責と自己愛は表裏一体だと考えられる。啄木は自分を愛するからこそ自分に厳しい。たとえ自分を嫌いであっても。

   文学部の活動拠点「10号館の入口」

 

3 坂西志保訳 “A Handful of Sand”(『一握の砂』)

照井悦幸     

・石川啄木の作品が、英語圏で最初に刊行された翻訳本は1934年アメリカ、ボストンで出版された坂西志保による“Modern Japanese Poets”シリーズの初巻 A Handful of Sand である。

・初版本は750部で、表紙は二種類ある。その理由は、表紙に使った千代紙が750部分には足りなかったのではないか。

・坂西は、当時の日本にあって啄木がいち早く「幸福を追求する」という自主的な人間の本来的な問題に目覚めた詩人と捉えた。

・1930年代、国際的にみて、日本の立場は悪くなっていた。坂西は、この本を刊行した動機を次のように書いている。「いまのアメリカ人に強く訴えるのは、日本人がいま何を考えているか、ということじゃないかと思って啄木などの英訳をはじめた…」啄木の「はたらけど…の歌は日本の現状を伝えるためにはさんだ。」

   

「啄木は、父から芸術、     
母から知的な才をもらった」 

    

・啄木という人物の特性について、父から芸術的な才、母からは知的な才を受け継いだと述べ、その双方から受け継いだものは「自主性」(Independense of mind) であると指摘する。Independense of mindは、アメリカでは大切な価値あることばとされている。

・啄木が貧困だったのは、彼が創造活動を怠けていたわけではない。歌を作っても食べていけない社会、国家の中に啄木がいるからだ。

・「自主性を実現し、文学という創造活動をするものは社会不適応者として潰されてしまう社会」そういった不完全な社会に妥協せず、啄木は自分の独立心を持ち自立しようとしていた。

・坂西は「煙 二」が一番よいといっているが実際2首しかとらず極力避けているようだ。その理由は、固有名詞は英語にしにくい(地名、人名など)から。これは、日本の文化をアメリカにわかりやすく知らせるための賢い選択だったと思われる。

・「幸福を追求する権利」と啄木の生き方は、今日の日本においても示唆をあたえるものではないか。啄木は歴史的人物ではなく、現代に通ずるものとしてみることもできる。坂西はアメリカの国会図書館で働く公務員だった。能、歌舞伎等、日本を紹介する本を書いている。日本の文芸ということで啄木などを紹介したが、戦争を防ぐ力になるように書いたのではないか。

 

 
「10号館1階ロビー」は広い
アーチ型の天井は礼拝堂をおもわせる
 

◎ 講演

  短歌史における啄木の存在

太田 登     

 はじめに

・啄木が明治45年4月13日に亡くなったことは幸福だったと思っている。啄木の短すぎた生涯そのものが「可能性の文学」であるから。

・国崎望久太郎は『啄木とその前後』で啄木は近代短歌史の分水嶺的存在であると指摘した。アララギからすれば啄木はもっとも遠い存在だったしその反対もいえる。

 1 「アララギ」の内部論争と啄木の存在

・明治45年4月に啄木が亡くなった、そこにアララギの分岐があった。

・伊藤左千夫が誰よりも早く、大正1年8月「『悲しき玩具』を読む」を発表した。左千夫は巻末の「一利己主義者と友人との対話」もきちんと読んでいた。

・左千夫は「啄木の歌には試作がない。一首一首、佳作である」といっている。アララギの内部論争は盛んだったが、左千夫が啄木の歌論を吸収し「『悲しき玩具』を読む」を発表したことを分岐として、アララギ派は立ち直っていった。

・短歌研究方法はたくさんあるが、アララギと啄木は我々が考えているより「ものすごく近い関係にある」のではないか。これからの研究課題である。

 

「啄木を近代短歌史の中で正当に位置づけるためには
啄木も俎の上に…」
と太田先生の高熱(?)のお話

 

 2 「現歌壇への公開状」(「短歌雑誌」大正11年5月)と啄木の存在

・大正11年5月、日本で初の「短歌雑誌」が発刊された。西村陽吉は、萩原朔太郎を駆り出し、啄木を「民衆短歌の祖」として祭り上げた。朔太郎という存在を通してアララギを貶めるために啄木を逆に評価した。啄木が歌壇の正流となったことは後にも先にもこの時しかないと思う。

・私的なとらえ方だが、大正10〜11年が第一期啄木ブーム、昭和4〜5年が第二期、戦後第二芸術論ピークのときが第三期となる。その後、啄木ブームはない。

・朔太郎は啄木を評価して「啄木の求めたものは、詩を技術とするための人生ではなく、詩を実現するための人生であった」といった。この一節は大事にしたい。

・西村陽吉たちはそのことに気づかなかった。

 自らを卑しむ心にとらはれて電車の中に縮こまりいる

「短歌雑誌」に載ったこの歌をあるべき啄木短歌として高く評価し秀歌とした。これは啄木の歌に似ているが秀歌とはいえないと私は思う。

 3 『植物祭』と啄木の存在

・昭和に入り啄木の神聖化、偶像化は強まる。それを本来の方向に戻そうとしたのが前川佐美雄の『植物祭』である。

・啄木の『一握の砂』と前川佐美雄の『植物祭』を比較するとずいぶん面白いことが見えてきた。いままでの短歌史を書き換えるようなことが出てきた。

近代短歌が現代短歌に移行していく時の、一番先は啄木にあった。「啄木短歌=プロレタリア短歌」に吸収されない、「啄木短歌の流れ」が前川佐美雄に継承された。   (あえてモダニズム短歌としておく

 おわりに

三好行雄の文学史観(啄木評価)

・啄木を偶像化し過大評価してはならない。啄木も批判の俎上に載せなくてはならない。ニュートラルな立場で啄木を評価しなければ、啄木という存在が文学史の中で正当に位置づけられない。

 


阪神・淡路大震災のこと

啄木の息」管理者     

 忘れないための記録

 1995年(平成7)1月17日(火) 午前5時46分52秒、淡路島北部を震源として大地震が発生しました。
 あの朝、ヘリの空撮で街のあちこちからものすごい煙が何本も立ちのぼっているテレビ映像を見たのが、わたしが大地震を知った初めでした。死者は6000名を超え、何十万人の方たちが避難されました。

 啄木学会が神戸で開かれるのを知ったとき、一番に『会場となる甲南大学ではどうだったのだろう』と思いました。そして、大震災を契機に「人と防災未来センター」が神戸に設立されたニュースを知っていたのでぜひ訪れたいと考えました。

「エントランスロードをたどって震災慰霊碑へ」
サークル勧誘の立て看板がズラリ

 1 甲南大学に残る震災の「場」

 1995年1月17日未明に神戸・淡路地方一体を襲った地震では、学園のシンボルである1号館をはじめ、多くの建物が壊滅的な被害を受けました。(甲南大学 大学案内 「甲南の歴史」より)

 

「甲南大学のシンボル1号館」
写真中央の樹の下に見えるのが災害記念碑

 

  

   「甲南学園災害記念碑」

   阪神大水害    1938年7月 5日

   阪神・淡路大震災 1995年1月17日

「天の災いを試練と受け止め 常に備えて 悠久の自然と共に生き 輝ける未来を開いていこう」

 

 震災モニュメントマップ

  甲南大学/記念碑「常ニ備ヘヨ」

 白壁の美しさから「白亜城」と呼ばれた旧制高校の面影を残す本部棟。記念碑はその前に立つ。碑には甲南学園創立者の故・平生釟三郎氏の筆による「常ニ備ヘヨ」という文字が刻まれている。

 学園はこれまでに2度、大災害に見舞われた。1938(昭和13)年7月、阪神大水害で、前身の旧制高校を土石流が襲った。全校生徒がスコップを手に、教室や校庭の土砂を運び出した。平生氏は、復旧作業に汗を流す生徒たちを見舞い、「自然はこんな災害を必ず幾回も繰り返す」と訓示している。この時の経験を忘れまいと甲南小学校に平生氏の筆による「常ニ備ヘヨ」との石碑が建てられた。

 そして半世紀後の阪神大震災。大学の校舎のほぼ半数の5棟が全壊し、学生16人が亡くなった。

 2年後の97年3月、すべての校舎復旧が完了。これに合わせて同年4月、甲南小学校と同じ平生氏の筆を刻んだ御影石の記念碑が新たに建てられ、両方の災害の日付が刻まれた。

 「備ヘ」の教訓を受け、新校舎は耐震構造を取り入れ、廊下や階段の幅が広く、非常時に避難しやすくつくられた。碑文は、当時の理事長、学長名でこう続いている。「天の災いを試練と受け止め 常に備えて 悠久の自然と共に生き 輝ける未来を開いていこう」

(震災モニュメントマップ 神戸市東灘区
  http://www1.plala.or.jp/monument/m-higasinada.html )

  

   
「犠牲者の名前を記した慰霊碑」     
1号館の向かい側に造られた       
  「忘れないために」
   大学に残る震災の「場」
 阪神淡路大震災に襲われた甲南大は、校舎5棟が全壊するなど大きな被害を受けた。壁がはがれ落ち、グラウンドには亀裂が走った。理学部(現・理工学部)では、火災も起こり、貴重な資料も失われた。住宅地に囲まれた大学は、地域の力にも助けられながら、復興作業を開始。現在の校舎を建て直すまでに、2年の月日を費やした。
 
 2001年の4月には、記念碑の向かいの植え込みに犠牲者の名前を記した慰霊碑も造られている。
 
(「忘れないために」大学に残る震災の「場」<上>
  http://www.unn-news.com/sinsai/2003rensai/rensai06.html )
  

 2 「人と防災未来センター」  神戸市中央区脇浜海岸通

 

全面ガラス張りの「防災未来館」

1.17シアター

 震災発生で崩壊していく地域の様子を巨大映像でみることができます。ごう音とともに激しく光が点滅し、本当に床が振動し震災発生の瞬間を体験できます。
 そんなに激しく揺れるわけではないのですが、何かに掴まっていないと立っていられない気がしました。

震災直後の街

 震災直後の町並みを実物大ジオラマ模型で再現しています。ガスの漏れる音、レスキュー隊の叫び、サイレンの音、ショートする電線などをリアルに感じることができました。

震災の記憶をのこす

 市民からの震災関連資料や体験談の展示がしてあります。

 地震直後、ボランティア活動に参加した人は一日2万人を超えたといわれています。この年が「ボランティア元年」ともいわれました。人と防災未来センター内部もたくさんのボランティアの方々が資料作りや説明、震災の状況や復興のことなどを語る「語り部」として働いていらっしゃいました。

 

 3 明石天文台の時計塔

 

「長い間、震災の午前5:46で停止していた」

  

 東経135度子午線上にある明石市立天文科学館の標準時を刻む大時計は、大震災で止まってから3年間そのままになっていました。針が午前5時46分を指していた映像をなにかで見た覚えがあります。今、元気(?)に動く針は三代目だそうです。

「車窓からみる明石天文台の時計塔」

  

 4 寅さんと神戸

 映画「男はつらいよ 寅次郎 紅の花」は、渥美清さんの遺作となりました。震災のあと「寅さんにここに来てほしい」という被災地からの声を山田洋次監督が聞き、出来上がっていたシナリオを変更して神戸ロケを入れたそうです。

 「大勢の方が亡くなったこの土を踏むのは申し訳ない」と、渥美さんが雪駄の足を踏み出せなかったという話を思い出します。

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★ 忘れられない忘れてはいけない記憶を記録したくて、啄木学会の旅に震災跡を加えました。

★ ご準備くださった方々に感謝いたします。神戸で開催していただき、ありがとうございました。

 

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