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啄木行事レポート

 講演会『白堊の肖像 啄木・賢治』

  2003年5月10日(土)  第34回 在京白堊会 於:アルカディア市ヶ谷 

  講師 遊座昭吾先生         

○ 啄木はなぜ名前にこだわったか

・名前の出てくる歌がいくつかある。
 
   己が名をほのかに呼びて/涙せし/十四の春にかへる術なし
  
   そのかみの神童の名の/かなしさよ/ふるさとに来て泣くはそのこと
 
・啄木が自分の名前にこだわっているのは不思議だが、解明できない。

 

講演に聴き入る

・小学校二年のとき、工藤一から、石川一になる。
(啄木が生まれた頃、父一禎は、僧籍であることを考慮してか、母カツを入籍していず、母は工藤姓のままであった。1892年(明治25)母カツは石川家に入籍し、三人の子は戸籍上石川一禎の養子となる。啄木も以後工藤姓から石川姓となった。) 
  
・盛岡中では、自分で筆名・署名を作る。白羊会(盛岡中四年の啄木が中心となって結成した短歌のグループ名)、石川翠江、石川麦羊子、石川白蘋、ハノ字、石川啄木。
 
・なぜこのように名前を変えるのか、詮索してみた。そうすると、一つひとつの点がだんだん線になり、名を付けたときの啄木の顔がわかってくる。
 
*麦羊子 羊は春にお産し、夏に毛が繁り、翌年夏に一人前になる。羊は人類が巡り会った最初の家畜。大事な動物であった。麦羊子は、毛の繁る夏の羊をいうのではないか。
 
*白羊 春の羊、白い毛で身を覆っている。
 
*白蘋 白い浮き草。
 
・こうしてみてみると、皆「白」につながっている。啄木の中の原風景は「白堊城」ではないか。
 
・小説「葬列」の中で「雪白の大校舎、白色の大門柱、白色の数知れぬ木柵、白!白!白!」盛岡中を全部白で表している。
 
*ハノ字 白という字を音であらわしカタカナにしたのがハノ字。
 
*翠江 『江碧鳥逾白・・』 杜甫「絶句」 碧濃き河、鳥いよいよ白く・・の対照語として「翠」を出した。碧と翠は同じ。ネーミングは白堊城が原点。「江」は北上川。
 
  盛岡の中学校の/露台の/欄干に最一度我を倚らしめ
 
・この歌は、盛岡市の光景から盛岡中学に焦点を絞り、もっともモダンなバルコンに絞りさらに手すりに目を向ける。バルコンは「そこから落ちたら危険だぞ」というところ。
 
・私は「倚らしめ」については、65歳になるまでただの「寄る」だと思っていた。しかし、「縋る」という意味だったことが判ってきた。物理的に「寄る」のではなく精神的岐路に立ったとき、「縋りたい」「危険から逃れたい」という願望だった。彼は中学を退学し、人生の岐路に立ったとき、母校のバルコンに「倚らしめ」と願った。
 

 

遊座昭吾先生の迫力ある語り

  

○『岩手日報』主筆 福士政吉(号神川)と啄木

・啄木は中学四,五年の頃、狂ったように中央の文学を読み、狂ったように筆に託した。日本文学を批評し文字に表し、岩手日報に発表した。これは限られた人しかできない。啄木は中学四年からそれをした。
 
・それを誘った岩手日報の主筆神川は、日報の中の一番見やすい一面の中段を中学生に提供した。1901年12月3日、啄木の文学は20世紀とともにスタートした。
 
・啄木は、詩集「草わかば」1902年(明治35年)1月1日発行の書評を日本で最も早く書いた。その文体の見事さ。とても中学四年の作とは思いがたい。しかも「用語を適切に使え」など、文句をつけている。
 
・3月には「寸舌語」。これも即座に読んで書きまくっている。
 
・中学五年になると一層中央文壇に興味を示し、明治43年5月30、31,6月1日と連載で内田魯庵に目を向け「この作品は日本の文壇の中でもっとも注目すべき一つだ」と評している。
 
・6月20日「『ゴルキイ』を読みて」を発表。中学五年の生徒がゴルキイを「自分は第一に慶すべき」と言い切っている。
 
・なぜゴルキイをこう批評するか。このとき啄木の中に危機的状況があったのではないか。7月7日から一学期試験。7月16日から夏休み。そして10月27日退学を許可される。
 
・文学に熱中し退学に到る半年間に、12900字、原稿用紙にして32枚。すべて中央文壇を対象にした批評である。編集長は活字と化して生命のある作品としてくれた。
 
・エポックメイキング-新しい啄木を作る重大な時期だった。
 
・「ハノ字」の号で書いた「『ゴルキイ』を読みて」「夏がたり」は、啄木学会では参考資料になっているが、私は「啄木」と「ハノ字」は、同一人物と思っている。次に出される全集では市民権を与えたい。


○『明星』主宰 与謝野鉄幹と啄木

・日本の浪漫主義のリーダーである鉄幹との出会い、これは質量共に大きい。「和歌も一つの詩形だが、今後の詩人は新体詩の開拓をなすべき、君の歌は奔放に過ぐ・・・鉄幹」と、厳しく啄木を諫めた。
 
・啄木の日記に出てくる言葉。「運命」「涙」「発熱」「悪寒」「頭痛」このとき既に病気の症状が出ていたのかもしれない。「シェークスピア」「ゴルキイ」「イプセン」同じ日記に漢字とカタカナが並ぶ。私には、この時期の啄木の疲労困憊している健康状態を表しているのではないかと思われる。
 
・私は明治36年12月号の「明星」を一ページずつめくった。これまで資料として読んでいたが一ページずつめくると読んだ感想が全く違った。「啄木」という署名が入り、詩が三ページも載っている。活字だけでは、作品だけでは分からなかったことがあった。元の本を見る大切さがわかった。
 
・明治37年1月号の社告を与謝野鉄幹がしている。詩では高村光太郎、与謝野鉄幹と並んで石川啄木の名前がある。目次に啄木の名が載った。日本文壇にデビュー。このとき、啄木17歳。
  
  「啄木鳥」     石川啄木

 いにしへ聖者が雅典(アデン)の森に撞(つ)きし、
 光ぞ絶えせぬみ空の『愛の火』もて
 鋳(い)にたる巨鐘(おほがね)、無窮(むきゆう)のその声をぞ
 染めなす『緑』よ、げにこそ霊の住家。
 聞け、今、巷に喘(あへ)げる塵(ちり)の疾風(はやち)
 よせ来て、若やぐ生命(いのち)の森の精の
 聖(きよ)きを攻むやと、終日(ひねもす)、啄木鳥(きつつきどり)、
 巡りて警告(いましめ)夏樹(なつき)の髄(ずゐ)にきざむ。

 
・二十世紀の現代は神聖なものを冒し続けてはいないかと、啄木鳥が木をたたいて警告している。17歳の少年が日本の詩壇に向かって叫んだ。「詩人は神の言葉を代理に言う」といわれているが、啄木は直感的に真実に近づいた。
 
・1903年、「明星」デビュー。今年は2003年。100年経って初めて啄木の少年の肖像が見えてくる。
 

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○ 「雨ニモマケズ」は 願望の言葉  

 「雨ニモマケズ」   宮沢 賢治
  
 雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラツテヰル
 一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ/ジブンヲカンジヨウニ入レズニ/ヨクミキヽシワカリ/ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病氣ノコドモアレバ/行ツテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ/行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ/行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボウトヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ
 サウイフモノニ/ワタシハナリタイ
 
・賢治は丈夫な体を持っていないから、願望した。「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と、願望するが故に書いた。
 
・これは「詩」ではない。願望の言葉。すべて修飾語で書いている。これは、誓願であり、神仏に誓いをたて、成就を願ったのであると思う。

先生の前では みんな高校生

○ 賢治・最後の書簡


1933年(昭和8)9月11日 柳原昌悦宛 書簡
 
・・・私もお蔭で大分癒っては居りますが、どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず、咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、或は夜中胸がぴうぴう鳴って眠られなかったり、仲々もう全い健康は得られさうもありません。けれども咳のないときはとにかく人並に机に座って切れ切れながら七八時間は何かしてゐられるやうなりました。・・・
 
僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。・・・
 
そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。どうか今のご生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。・・・
 
 
・日付のハッキリした最後の手紙。「現在の生活のほうが立派なのにそれを味わわずにいる」と考えている賢治。
 
・「原稿は皆お前(弟)にやる。どこの出版社でもいい。欲しいといったらやれ」
 
・老いた母が冷たい水をあげる。賢治は自分で、オキシフルをつけた脱脂綿で手から首から体を拭く。
 
・遺言は「法華経1千部を印刷して知人に配布」するよう父に頼み、昭和8年9月21日、、午後1時半死去。見事な最期というしかない。

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参加しての感想

*講演会の後にサロン・コンサートがあり、卒業生の方が、啄木の「初恋」(越谷達之助作曲)等を歌いました。

  砂山の砂に腹這ひ/初恋の/いたみを遠くおもひ出づる日

しみじみとこころに染み透る歌でした。
 

*お誘いくださった佐藤泰久さん、ありがとうございました。そして、卒業されて幾星霜の方もいらっしゃるのに、遊座先生の前では高校生になり畏まって、しかし身を乗り出して啄木先輩、賢治先輩のお話を聞いていました。
 
*なんて格調高いステキな「師と生徒」かと思いました。皆さまにお世話になり感謝しています。

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