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啄木行事レポート

国際啄木学会「2010年度 春のセミナー」

  2010年4月25日 会場 明治大学駿河台キャンパス  

      

 

「若緑の明治大学キャンパス」

*会長挨拶

 太田登

・昨年、函館において20周年の記念大会を無事開催できた。多大のお力添えに感謝する。創立20周年の節目をどう生かすかは、私たちに課せられた大きな課題である。節から芽が出る、特に節から若い芽が出て育っていくように皆さんと共に頑張っていきたい。

・2010年度 国際啄木学会 京都大会

 期日 2010年9月4日(土)、5日(日)
 開催地 立命館大学
 (このレポート末尾に詳細あり)


プログラム

研究発表

 千葉暁子 「盛岡大学生が読む『一握の砂』」

 大室精一 「『悲しき玩具』末尾の十七首」

第62回岩手日報文化賞記念特別講演

 遊座昭吾 「林中」から「一握の砂」


  

*研究発表

 「盛岡大学生が読む『一握の砂』」ー 記憶・批判・発信 ー

・千葉暁子

○ 盛岡大学生が感じる『一握の砂』

・私は、大学で「啄木・賢治研究会」の代表をしている。

・盛岡大学は滝沢村にある。西には姫神山、東には岩手山が大きく聳える絶好のロケーションに恵まれている。まさに「ふるさとの山に向ひて言ふことなし」といったところ。盛岡大学は県内で唯一の文学部のある大学である。

・今年、盛岡タイムス社が企画した「わたしが選ぶ『一握の砂』この一首」に、啄木・賢治研究会の2人が感想を書いた。

  守屋美咲  見てをれば時計とまれり 吸はるるごと 心はまたもさびしさに行く

・守屋さんは、「実際に時が進んでいても、私だけが止まった時計の時刻に取り残されたようで寂しさを感じる。動くはずの時計が針をとめたとき、そこに湛えられている淋しさを思い出す」と感想を述べている。

  野中雄太  霧ふかき好摩の原の 停車場の 朝の虫こそすずろなりけれ

・野中君は、高校まで栃木県に住んでいた。「盆と年末年始、好摩にいる祖父を訪ねるのが恒例だった。兄と二人、大好きな祖父が迎えにくるまで好摩駅構内におかれた啄木歌碑をなんとなく眺めていた。この歌は幼い頃の好摩での思い出を蘇らせてくれる」と話している。

・二人とも自分の体験に深く関わっている。思い出は個人的なものだが啄木の歌をきっかけにして、自分の体験がなくてもあたかも共有体験のように想像できる。それは『一握の砂』が普遍的な思い出を通じて故郷への思慕を歌った歌集だからではないか。発刊から100年を経て啄木はこうして人々を繋いできたといえる。

   

    「千葉暁子 氏」

○ 東北文学演習 I(石川啄木作品演習)

・東北文学の作家として啄木の作品を分析し、受講者全員による口頭発表と共同討議をする。

・演習の流れ、発表はペアで行う。一人が好きな論文を選びハンドアートを作成し発表する。もう一人が論文に対する議論する余地のあるコメントをする。それから共同討議を行う。論文を批判的に読むことで『一握の砂』の新しい読み方が発見でき、鑑賞による読みとは違った驚きや発見があった。このようなクリティカルリーディングによって他者の考察を再検討することは、個人的な読みとは全く違った開かれた読み方といえる。

・文学踏査として石川啄木記念館や寺山修司記念館を見学した。このような活動を通じて『一握の砂』に関する重層的な読みの活動を行ってきた。

○ まとめ

・演習・図書館展示・啄木忌前夜祭・啄木学会などに参加し、単に受け身的に『一握の砂』を読むだけでなく自分たちの読みを発信することによって『一握の砂』をめぐる読みがいかに重層的なものであるか実感している。

 

「『悲しき玩具』末尾の十七首」

・大室精一

発表要旨

 歌集『悲しき玩具』は「歌稿ノート」が元資料であるため、その配列編集に関する研究は殆ど考察されてこなかった印象がある。今回は『悲しき玩具』末尾の十七首に焦点を絞り、「歌稿ノート」と雑誌「詩歌」とで歌の配列が異なることの意味を追求する。

○ 藤沢全『啄木哀果とその時代』による『悲しき玩具』歌稿ノートの記入状況

5段階に分けて記載されている。

 第一段階(3~68番歌)、第二段階・前期(69~98番歌)・後期(99~114番歌)、第三段階(115~130番歌)、第四段階(131~177番歌)、第五段階(178~194番歌)→「詩歌」に掲載された前後に浄書。浄書には別人説もある。

○ 『悲しき玩具』歌稿ノートと雑誌「詩歌」(明治44.9)との比較

この二つには27カ所の差異がある。なぜあるかは追求されていない。

178〜187番歌の連続は同じ。188〜192番歌は、配列が違う。私はこれは推敲の前後によるものと考えている。

194番歌の後にある「大跨に椽側を歩けば」は、未完成である。今まであまり注目されなかった。これは啄木の筆ではないか。啄木はここで終わるつもりは全くなかった。しかし、ここで筆が終わった。

○ 両歌群における句読点の異同と推敲の前後関係

異同は6カ所あり、例外(185番歌 読点の削除)を除けば、他は全部読点の追加である。

『悲しき玩具』推敲における句読点の原則は、「なし→読点→句点→諸符号(?!など)」の順序で変わっていく。従って、句読点の異同から、歌稿ノートが前で「詩歌」が後だろうとほぼ言える。

「詩歌」には歌稿ノートにない配列構成がされている。類想によってセットとなった歌、同じ素材によって結びつけられた歌。「詩歌」で初めて配列構成を持った歌群として並んでいる。配列意識からも、歌稿ノートが前で「詩歌」が後だろうと言える。

『悲しき玩具』全体の推敲の前後は末尾の17首が確定すれば全て確定することになる。

一段階のみは『一握の砂』と全く同じ編集方針を取っている。四首単位の配列も踏襲している。二段階以降は趣を変えている。

○ 「歌稿ノート」末尾の十七首の記入者は誰か?

・啄木本人か別人か(節子? 光子?)。一〜四段階は、啄木自筆だが、五段階は連綿を使っていて女性らしい筆のため論議になっている。吉丸正夫さんや、湯澤比呂子さんが詳しく分析し「啄木本人のもの」と発表。「節子の字だろう」と今井素子さんほか多数の方の意見。「妹の光子では」という久保田恵子さんの説もある。

 

   大室精一 氏」

○ 今後の『悲しき玩具』論のために

1 歌稿ノートと諸雑誌との関係 

 推敲の前後関係と「初出」・「歌集初出」の表記については、『一握の砂』では明確だが『悲しき玩具』では全く異なってくる。(〈歌稿ノート初出〉という言葉も必要となるかもしれない)

2 歌稿ノートと諸雑誌との関係

 二、四、五段階にはほとんど配列意識がない場合もある。雑誌のほうに綺麗な配列構成があったりする。

3 明治44年8月21日の啄木日記

 「歌十七首を作つて「詩歌」の前田夕暮に送る。」とある。これは重要な表現で、作ったのも送ったのも21日だと分かる。従って歌稿ノートは推敲前の姿となる。

4 筆跡のこと

 「啄木はいろんな意味で真似がうまかった。たとえば及川に文学指導を受けていたときには及川、金田一と親しくなると金田一の筆跡そっくりの字を書いていた。」松田十刻『26年2か月 啄木生涯』(もりおか文庫)

 筆跡が誰のものであるか、まだ決着はつかない。最終的には筆跡鑑定などが必要とおもわれる。

 


*第62回岩手日報文化賞記念特別講演

   遊座昭吾 「林中」から「一握の砂」

 

・1910年(明治43)12月1日、処女歌集「一握の砂」が刊行された。啄木、数え25歳、実に若い。彼は時間に追われ続け、僧侶のように渋民、盛岡、函館、小樽、釧路、東京と一定の住所を定めず生涯を送った。しかも、時代をしっかりと見つめ、教員として記者として仕事をもって縦断した。そのことが彼に瞬間という時間を発見させ、刹那刹那の命を愛する心を表現する文学者となった。

・盛岡帷子小路に「閑天地」を探し求め節子と新婚時代を送り、磧町では、文芸雑誌「小天地」を出す。なぜ自分の住むところを「天地」と呼ばねばならなかったか。苦しい事情で一度出た渋民にまた戻る。その日記のタイトルが型破りだ。

MY  OWN  BOOK
   FROM
MARCH 4,1906
  SHIBUTAMI.

・実にモダンなタイトル。同じ渋民の人間としてこれには参ってしまう。21歳の高揚した精神を感じる。

明治三十九年
渋民日記

  西暦 一千九百〇六年
  明治三十九年

○三月四日。

 九ケ月間の杜陵生活は昨日に終りを告げて、なつかしき故山渋民村に於ける我が新生涯はこの日から始まる。

・意気込みを感ずる。

・日記の3月、10月、12月の記事の中に別の共通のタイトルが出てくる。

○三月二十七日 林中日記(十八)

○11月23日(新嘗祭)の日から、盛岡中学の校友会から頼まれて居る寄稿に筆を染めた。題は『林中書』半紙半截二十四字詰七十一枚。十二月三日に脱稿して送つた。
 これは極めて痛快なるものである。
 日本文明の積極的批評! 明治の教育界に投ぐる爆裂弾!

○この日記を訂正して、『林中日記』と題し(其一)五十枚許り『明星』へ送つた。ああ予の『我が懺悔』!!!

[注 3番目の項は、12/7頃]

・彼の胸の中に「林中」という二文字が宿った。それを明星へ送ったのだからこれは読者を持つ作品だ。日記ではない。21歳の激しさに私は驚く。「林中」というのは渋民時代の啄木文学のキーワードだ。3/4に始まり、3/8、10、17と同じ頃にこういう読み落としてはいけないことばが続く。

○三月八日

抑々人が生れる、小児の時代から段々成人して一人前になる。成人するとは、持つて生れた自然の心のままで大きい小児に成るといふだけの事だ。

[注 これより下は『林中日記』]

○三月十日

 生涯の第一戦に、脆くも敗をとつて此林中に退いた残亡の身、我も亦一個年若き罪人である。

 然り、此我は確かに好個の一囚人である。

・このことばを読み落としてはいけない。ところが、後半は調子が変わる。

 然し、此囚人は、毎日囹圄(注)の窓に手を合せて、深く感謝して居る。何処へ? 何を? かかる囹圄の中にあり乍ら猶「感謝する」といふ心を、この胸に起させて呉れた天に。

[注 囹圄(れいぎょ)は、監獄という意味。漢字は、口の中に「令」と、口の中に「吾」]

・窓に手を合わせてどこに感謝しているか。「天」に。啄木は、「閑天地」「小天地」と、よく天という文字を使う。それは、英国のロマン詩人ウオルズヲース(ワーズワース)を愛読していて、彼の作った詩を見た時に由来する。

ウオルズヲース 詩  出口保夫 訳

大空に 虹を見る時
わたしの 心は躍る
わたしの生命の始まりも そうだったし、
大人となった 今もそうである。
わたしが 年老いた時も、
そうであってほしい、
そうでなければ生きていても仕方がない。
子どもは 大人の父である。
これからの日々も 自然を敬う心によって
毎日がしっかりと 結ばれていてほしい。

・子どもは大人の父である。“ The Child is father of the Man. ” この一節に15歳の啄木は酔った。彼が教育するときの根底の理論となる。

   「遊座昭吾

・林中生活というところはどういうメンタルな空間か。作品の「林中日記」「林中書」から眺めてみたい。

・渋民は奥州街道に沿う一本道にある。宝徳寺の寺と社は松と杉の老木に囲まれている。原始の時代から聖なる域とされた森、林である。聖地の入口、愛宕神社の鳥居の前で小学生の私は必ず止まり脱帽してお辞儀をした。今、その森や林はどうなっているか。

・林中という空間で彼の行った実践を一つ紹介する。代用教員時代、彼は2年の担任だがどうしても高学年を教えたかった。啄木は教員資格を持っていないので高学年は持てなかった。そこで、時間外に英語の教育をした。新国家の英語の必要性、英語学習の喜び、英語の発音の注意点、教室内での英会話……、これら彼の学習目標に対して生徒の反応はどうであったか。学校日誌によれば、4/26 出席21名、4/27 出席24名、4/28 出席27名。だんだん出席が増えていく。林中という二文字の強さ、それは “ことだま” といったらいいのだろうか。

・日清・日露戦争、あの大国に日本は勝ったと国人は酔いしれた。それを冷静な目で見ながら啄木は「林中書」(明治40年3月1日盛岡中学校校友会雑誌 第9号)に、「日本は依然として東海の一孤島で居るのに……」といった。

・明治40年5月4日、啄木は日記に「啄木、渋民村大字渋民十三地割二十四番地(十番戸)に留まること一ケ年二ヶ月なりき、と後の史家は書くならむ。」(明治四十丁未歳日誌)と記した。これは、どういう言葉に聞こえるか。

・5/5青森から函館へ。8/25函館大火に遇い、9/13小樽へ。わずか120有余日の函館滞在に啄木はこう書く。5/11の日記には砂山を題材に短歌を書く。6/10発行の同人雑誌「紅苜蓿」に砂山の詩を載せる。翌月の『紅苜蓿』に、小説『漂泊』を載せる。たかが22歳の青年の作品は、芭蕉に通ずるシチュエーションをもっている。小説『漂泊』は、『一握の砂』冒頭10首の原風景であると思う。明治初期の函館の地図にも、明治37年の詳細地図にも大森浜に「砂山」という文字がある。

・明治40年9月、交友会雑誌第10号にエッセイ「一握の砂」を発表する。「一握の砂」という名前の付いた最初のものである。それから毎年「一握の砂」という言葉を使う。だから、私はこれを演題とした。

 年若き旅人よ、何故にさはうつむきて辿り給ふや。目をあげ給へ、常に高きを見給へ。かの蒼空にまして大いなるもの、何処にあるべしや。如何に深き淵も、かの光の海の深きにまさらず、如何に高き穹窿もかの天堂の高きに及ばじ。日は恒に彼処にあり。

(石川啄木「一握の砂」)「盛岡中学校校友会雑誌」第十号(明治40年9月20日に寄稿)

・蒼空を見なさい、と言う。啄木も学校を出ていない。しかし、啄木は寺の子 - 私もそうだが - 、どうしても最後は天にいく。天を仰ぐ。

 世に最も貴きもの三あり。一に曰く、小児の心。二に曰く、小児の心。三に曰く、小児の心。ああ、生れたる儘にて死ぬる人こそ、この世にて一番エラキ人なるべきなれ。

・渋民時代の「林中」と、函館時代の「一握の砂」というキーワードには一脈通ずる時代観、文明観、人間観があるように思える。

・「一握の砂」の終わりのほうに「林中の譚」というファンタジーに満ちた寓話がある。林中をひとりの人間が行く。樹上には猿がいる。人が猿に愚かなるかなと言い、猿が人に憐れむべきかなと言う。論争の結果どういう結論がでるか。人は言う。「俺たちがもし世界中の森林を伐り尽くしたら、お前たちは何処に住むか」。すると、猿は言う。

 猿の曰く、噫々、汝は遂に人間最悪の思想を吐き出せり。汝等は随所に憎むべき反逆を企てゝ自然を殺さむとす。

 汝等は常に森林を倒し、山を削り、河を埋めて、汝等の平坦な道を作らむとす。然れども其の道は所謂天に達するの道にあらずして、地獄の門に至るの道なるを知らざるか。

・すばらしい文明論だ。言い負かされた人間は小銃を持って来ようとするが、猿は橡の実を人にぶつけて姿をくらます。その表現はこうだ。

遠く白雲落日の深山に遁れ去りたらむ。

・猿は、すべての世界を支配してくれる天の郷に遁げた。「遁れり」は「逃げる」ではない。何か価値のあるものに導かれて行くことだ。

教室の窓より遁げて
ただ一人
かの城址に寝に行きしかな

・この歌も「逃げて」ではなく「遁げて」と使っている。エスケープではない。

「黒板に大きく“遁”と書く遊座先生」 

 

・明治40年9月函館エッセイのタイトルは「一握の砂」である。

・明治41年、東京時代。小野清一郎と金田一京助と啄木の三人で話をした直後に、「暇ナ時」という歌稿ノートが書き始められる。

・「仕事の後」という題で新歌集を出そうと思っていた啄木は、急に「一握の砂」ということばを思い出す。一首を三行書きにして出版社に申し込む。『一握の砂』(明治43.12.1発行)。函館日日新聞遊軍記者になっていた宮崎郁雨は、12月14日、発行14日後に、新聞に「『一握の砂』を読みて」の連載を始める。はじめの十首を問題にしたのは、発行わずか14日後に連載した宮崎郁雨だったことを忘れてはいけない。

・第二歌集に啄木は「一握の砂以后」という題を付けたかったが、「悲しき玩具」となった。「一握の砂」は彼の深層に残って消えなかったキーワード中のキーワードだった。

  

「先生の前ではみんな生徒」 

 

大といふ字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来れり

・なぜ「大」という字を書いたのか。人という字に手を付けると大になり、人という字は大きくなった。それより大きい字は天。人間の両腕よりさらに広い手は天。この歌は天に対する生きることの感謝になる。

  


<おしらせ>

2010年度 国際啄木学会 京都大会

・期日 2010年9月4日(土)、5日(日)

・開催地 京都立命館大学

  一握の砂刊行100年へ 徹底討論『一握の砂』を読む。

  一握の砂を一章ごとに問題提起をして徹底的に討論する。

(予定)5日(日)午前中、研究発表。午後、関西啄木懇話会の創立30年記念の集い。

  *詳しいプログラムは後日

       

    

「明大前のベニバナトチノキ」    

 

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